シューティングから贈与の行為へ
2004年7月2日 写真このところ、笙かカメラを毎日触っている。
結局、筆はあまり触らないのだから、絵の方向には向いてないのだ。私の高校時代に描いた油絵を応接間に額に入れて大切に飾っている両親は、絵の道に進めばよかったのに…と未だにいう。やめないで続ければよかったのに、と。高校時代はパンクだった私(笑)。規則だらけの日本の学生生活になじめず、17歳でアメリカに逃亡。コトバが全くできないので美術に没頭した。なんだかわからぬまま地域の美術展に入選し、アメリカの美大からスカラシップを得た。しかし、どうしてもアメリカという国があまり好きになれず、そのまま残らず帰国。その後は細々と絵を続け、遊園地の壁画のデザインをしたりしたが、やっぱり遠のいてしまった。
絵に関しては何度も深い挫折感を味わっている。それを乗り越えられるチカラがなかったのだから、才能がないんだろう。でも、いつまでも、美術的表現をしたい、やり切れていないという思いが残っている。成仏させねば。
で、イマは写真である。
カメラには何度か手を出したが、自分には向いていないと思った。理由は2つ。機材の扱いが困難なこと。それから「撮る」という行為が苦手だと感じたからだ。「撮る」は「トル」。被写体から何かをトル。つまり盗んだり搾取したりすることと同義だ。かなりの年齢になるまで、私は写真を撮られるのが嫌いだった。写真を撮られると魂がトラレルというのを信じていて、恐ろしくて笑って写真に写れなかった。まだ、その感覚が残っている。写真を撮るとき、私欲のために何かをトッテイル気持ちが抜けない。どこかにちいさな罪悪感があるのだ。でも、今の私はひたすらに撮る。
週刊誌を読んでいて、どしっとのしかかる一説に出会った。中沢新一の写真集に関する書評である。
ある日とうとう向こうからの呼びかけがおこった。さあ、シャッターを切って、私をお撮りなさい。そうなると写真を撮ることは、被写体を撃つという意味を持つ「シューティング」の行為ではなくなる。カメラをもった一人の人間に向かって、自然がよろこびとともに自分を贈り物としてさしだし、それに応えた人は感謝をこめてシャッターを下ろす。写真を撮ることがここでは「贈与」の行為に変容を遂げていく。
いわゆる「贈与論」は、文化人類学で修士号を取ったときにさんざんに勉強したなぁ…と回顧しつつ、中沢氏の文章にでてくる「贈与」というコトバには、何度あたっても、分かったような分からないような、なのに共感を覚える。
このところ、私は世界の輝きを「shoot」しようとやっきになっていたかも。自分のまわりにある世界を被写体にしてしまったら、私はそれと対峙してしまう。カメラを持つ事でその隔たりを感じていた。その半面で、対象と向き合える喜びも感じていた。
対象とひとつになること。
アタマでは分かってます。
あとはどれだけ鍛えて実践できるかだ。
妖怪感度を上げるために、即実行できること。感謝していただく。腹八分目、ベジタリアンは最低限守ろうとココロにきめたのでした!
結局、筆はあまり触らないのだから、絵の方向には向いてないのだ。私の高校時代に描いた油絵を応接間に額に入れて大切に飾っている両親は、絵の道に進めばよかったのに…と未だにいう。やめないで続ければよかったのに、と。高校時代はパンクだった私(笑)。規則だらけの日本の学生生活になじめず、17歳でアメリカに逃亡。コトバが全くできないので美術に没頭した。なんだかわからぬまま地域の美術展に入選し、アメリカの美大からスカラシップを得た。しかし、どうしてもアメリカという国があまり好きになれず、そのまま残らず帰国。その後は細々と絵を続け、遊園地の壁画のデザインをしたりしたが、やっぱり遠のいてしまった。
絵に関しては何度も深い挫折感を味わっている。それを乗り越えられるチカラがなかったのだから、才能がないんだろう。でも、いつまでも、美術的表現をしたい、やり切れていないという思いが残っている。成仏させねば。
で、イマは写真である。
カメラには何度か手を出したが、自分には向いていないと思った。理由は2つ。機材の扱いが困難なこと。それから「撮る」という行為が苦手だと感じたからだ。「撮る」は「トル」。被写体から何かをトル。つまり盗んだり搾取したりすることと同義だ。かなりの年齢になるまで、私は写真を撮られるのが嫌いだった。写真を撮られると魂がトラレルというのを信じていて、恐ろしくて笑って写真に写れなかった。まだ、その感覚が残っている。写真を撮るとき、私欲のために何かをトッテイル気持ちが抜けない。どこかにちいさな罪悪感があるのだ。でも、今の私はひたすらに撮る。
週刊誌を読んでいて、どしっとのしかかる一説に出会った。中沢新一の写真集に関する書評である。
ある日とうとう向こうからの呼びかけがおこった。さあ、シャッターを切って、私をお撮りなさい。そうなると写真を撮ることは、被写体を撃つという意味を持つ「シューティング」の行為ではなくなる。カメラをもった一人の人間に向かって、自然がよろこびとともに自分を贈り物としてさしだし、それに応えた人は感謝をこめてシャッターを下ろす。写真を撮ることがここでは「贈与」の行為に変容を遂げていく。
いわゆる「贈与論」は、文化人類学で修士号を取ったときにさんざんに勉強したなぁ…と回顧しつつ、中沢氏の文章にでてくる「贈与」というコトバには、何度あたっても、分かったような分からないような、なのに共感を覚える。
このところ、私は世界の輝きを「shoot」しようとやっきになっていたかも。自分のまわりにある世界を被写体にしてしまったら、私はそれと対峙してしまう。カメラを持つ事でその隔たりを感じていた。その半面で、対象と向き合える喜びも感じていた。
対象とひとつになること。
アタマでは分かってます。
あとはどれだけ鍛えて実践できるかだ。
妖怪感度を上げるために、即実行できること。感謝していただく。腹八分目、ベジタリアンは最低限守ろうとココロにきめたのでした!
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